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  • 執筆者の写真川口建

「五代友厚展」開催の挨拶文 川口建理事長

更新日:2022年1月9日

歴史から見ると明治の初期はまさに日本における革命であり、一歩間違ったら日本はどうなったのか? その混乱の時代を若き指導者達が命を懸け新しい日本を作っていった。その一人が「五代友厚」である。


五代は若い時から藩ではなく日本を見ていた。また「世界を視野」に入れていた。これは長崎で延べ11年の遊学期間に多くの現実を学び、人脈を築き、この人達はのちに様々な形で五代の活動を支えることになる。


五代の素晴らしさは「先見力」と「決断力」、そして「スピード感ある実行力」である。


武士を捨て明治新政府の役人を捨て、自分を必要とする大阪に東洋のマンチェスターとなるべき基盤を見つけ、それを活力の源泉として大阪の商人に溶け込み、外部から新しい風を吹き込んだのである。

五代の活動は「多面的な企業家」であった。金融・鉱山・製藍・製銅・貿易・印刷・港湾設備・交通・商法会議所・株式取引所・米商会所・教育機関と多岐に渡った。また五代の特徴は「公益性」があること。大阪の開港施設・居留地・大阪商法会議所・大阪株式取引所・堂島米商会所・大阪商業講習所・神戸桟橋・中小海運業者の大合同による大阪商船など、社会経済の基盤となるものが多かった。これらの大部分が今日なお、大阪いや日本経済の中枢的施設とし機能し続けている。

五代は、数々の事業を起業したが彼が単独で行った事業はなく、ほとんどが共同事業である。海外で学んだ「商社合力」(現在の株式会社)を実現していった。


元来大阪は個人から成り立つ商人の町である。この中で特異能力ある人(豊富な人脈・ビジネス経験・経営能力・資金力)を見出し新しい企業に次々にあてはめた。五代の貢献の意義を考えてみると、彼は明治維新期に渋滞していた「大阪人に〝喝〟」を入れたことである。目が覚めた大阪は、この地の可能性や夢を感じ取って多くの人々が大阪を目指し、第2の五代を目指して参集してきた。その結果が大阪企業家ミュージアムに近代大阪の企業家として105名の事跡を紹介されているが、最初の五代のパネルを始めてとして大阪生まれでない人は85名である。これが五代の残した一番の功績である。

五代は、実業家の16年間で多くの近代大阪の基礎を作り上げた。「忠恕の精神」を常に念頭に置き、国をまず考え、自分を捨て、多くの人々のため前を見て日本を考えていた。他の人に尽くし己の財はいっさい持たず、これだけの人が個人で当時100万の借財を残したのです。彼の死を知り大阪中の人は、五代の最後の別れに一般の人が4300人も阿倍野墓地まで続いたと言われている。


また、ひとつの町に五つもの彼の銅像がある。これらのことは日本中見てもありえないほどの現象であり、大阪の人が慕った所以である。

今、五代友厚へ多くの関心が集められてる。私たち一般社団法人五代塾は、五代友厚の精神を今の大阪のみならず日本の人々に一人でも多く知ってもらい、「未来へ継承していく」ことは責務と考え、五代塾活動を邁進してまいります。

今回の展示会は、五代友厚を初めて知る方、またもう少し総合的に全体像にふれてみたいという方々を意識し展示しました。そして、この展示会をご覧いただき、「未来への行動指針」が一つでも得られるのであれば五代塾としてもうれしい限りです。


                    一般社団法人五代塾 理事長 川口 建


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