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執筆者の写真川口建

「土佐稲荷神社」 (五代友厚ゆかりの地探索①より)-1

更新日:2022年1月9日

「豆知識」


地下鉄西長堀駅集合。最初にコースの全体説明をした後最初の目的地土佐稲荷神社へ。5分もかからず到着です。さて、五代友厚ゆかりの地としてなぜ土佐稲荷神社を選んだのか?


幕末・維新新政府への移行期に国内では大きな事件が続きました。

  1867年12月09日 王政復古大号令が発せられる

  1868年01月03日 鳥羽・伏見の戦い

  1868年01月08日 徳川慶喜、開陽丸で東走。戊辰戦争始まる

  1868年01月09日 大阪城炎上

  1868年01月11日 神戸事件

  1868年02月15日 堺事件

  1868年02月30日 英国公使パークス襲撃事件

五代友厚は、堺事件を含む前後の神戸事件、英国公使パークス襲撃事件という新政府樹立の成否がかかった三大渉外事件に関与し解決のため奔走した時期でした。


土佐稲荷神社は、土佐藩の責任として切腹する藩士20名をくじ引きで選んだ場所です。


「堺事件」の経緯は、1868年(慶応4年)2月15日に事件が勃発しまし。

午後3時頃、堺港でフランス要人2名を迎えるため仏兵士たちが埠頭に上陸して待機、そこへ土佐藩の兵士集団が仏兵の一部を拘束しようとしました。

非武装の仏兵たちが自船に逃げるところを土佐兵たちは銃撃を開始、仏兵11人が死亡し、5人が負傷した。

当時の日本政府の公式見解は「無法に土佐兵が発砲、殺害におよんだ」と記録されています。これは『堺市史』や宮本又次『五代友厚伝』はフランス側に非がありと書いていますが、謬説(びゅうせつ)が長く伝わっていました。今回【八木孝昌『新・五代友厚伝』】でその誤りを正した。


当時、フランス側の土佐藩への賠償要求は、➀指揮官2名、フランス人を殺害した者残らず3日以内に斬首 ➁被害者遺族扶助料15万ドルラル(洋銀)の支払い ➂最高責任者の皇族がフランス海軍司令官に陳謝する ④土佐藩主自身が藩士の暴行を陳謝し、且つ寛恕を求めること ⑤武器携帯の土佐藩士の開港場通行及び滞留を厳禁


上記➀に関し、土佐藩からは29名の申請があり、日本政府は20名と決定しました。20名の決定は、6番、8番隊長2名と小頭2名を除く16名は土佐稲荷神社で籤引きで決定しました。

大坂外国掛総裁の伊達宗城と参与の五代友厚は、にフランス側との調整、遺体の引揚げ・引き渡し、堺の妙国寺での切腹の立ち合いになどに不眠不休の頑張りと的確な判断で国難を解決しました。尚、切腹は11名が終わったところで、艦長から中止の提案が五代にあり、処刑は終わりました。

                     『堺表土佐藩士攘夷記』宇賀四郎氏蔵

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