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  • 執筆者の写真川口建

大阪港開港地跡 (五代友厚ゆかりの地探索①より)-4

更新日:2022年1月9日

「豆知識」

慶応4年(1868)7月当時の横浜に輸入する商品の1/3以上が大阪に輸送されるので、大阪での直接取り扱いの要望が多かったが、大阪は皇都に近く警戒の必要性がから、開港でなく単に開市となっていたが、7月15日には外国の要望も強く開港とした。以来運上所は関税の外、大阪における外交事務を管掌することになった。

尚、この地は江戸時代から水運の要所で、従来から繰り返し浚渫が行われています。天保2年(1831)に浚渫の土砂を積んでできたのが天保山です。五代も大阪港の開港を控え、広さ百間四方(一辺180m四方の広さ)、水深2丈5尺(7.5m)の浚渫を「外国の川堀道具」いわゆる蒸気機関で行う大工事を行った。この機械は先の欧州視察時の輸入機械のリストに記載されており、五代すでに予測していたと思われる。


しかしながら、国際貿易港としての繁栄は短かった。もともと河川に開いた港で、大型船が運航できず、さらに大阪―神戸間に鉄道が開通したこともあり、7~8年後には外国人の大半が神戸に移った。


後年、大阪市としても近代的な国際港にする整備は必須課題であったことから、明治30年から大阪築港計画を推進した。その規模は五代の時代の200倍の広さを誇る国際港が完成した。

しかし、五代の行った大阪港初期整備事業の先進性が、大阪港発展の布石となったことは間違いない。






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