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  • 執筆者の写真川口建

川口居留地跡碑 (五代友厚ゆかりの地探索①より)-7

更新日:2022年1月9日

「豆知識」

大阪港開港に伴い欧米人の大阪港への期待は大きく、居留地の初回分譲は慶応4年(1868)7月29日、26区画が競売された。

内訳は、英国人13区、米国人・ドイツ人各4区、フランス人・オランダ人各2区、ベルギー人1区で、平均価格100坪当たり354両、最高価格820両で神戸の2倍以上の高値がついた。

その後、新たに10区画、さらに周辺雑居地8区画を分譲し新しい街が誕生した。





当時の風景を次のように伝えられている。

「ユーカリとゴムと柳の街路樹が5~600本もあった。それが舗装された車道の隅に並びそよ風に騒めいていた。道路に面した緑の芝生、広いベランダのついたバンガロー式の異人館がずらりと並び、夕暮れになると四角い石油ランプの街灯がともった。教会の礼拝の鐘がエキゾチックな雰囲気をかもし、外国に行ったような錯覚を起こしたものだ」



この様に、文明開化の発祥は川口と言っても過言ではない。雑居地では、外国人の需要にこたえる格好で精肉やパン、牛乳の店が開業し、ラムネも販売、大阪で初の西洋料理やホテルがオープンしたのも川口で、洋服店、クリーニング店、理髪店、カフェが誕生した。ビリヤードやオルガン、テニスも当時の大阪市民を驚かせたといわれる。

しかしながらその繁栄もわずかで、明治32年(1899)7月に居留地は撤廃された。


その間繁栄と衰退の中で、居留地には、1869年には宣教師が移住し、1881年には川口基督教会が設立された。また、欧米系の宣教師らで、学校、病院を建設、関西を代表するミッションスクールが相次いで創立され、キリスト教伝道師と女子教育の拠点となった。

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