■明治維新における経済と産業近代化の先覚者、商都大阪を築いた大恩人■
あなたは、五代友厚を知っていますか!?
五代友厚公の精神を甦らせこの精神を引き継いでいく志の連帯を広げていこう
理事長挨拶
私たちが五代友厚を知ったきっかけは、スリランカの留学生・ネルソン氏の五代友厚の研究からでした。彼は1971年に34歳で来日しました。
スリランカにはくしくも150年前、五代さんが留学生と19名で英国渡航時の途中に寄港しています。島の最南端にあるゴウル港に到着し、岬全体に頑強な城砦、二階建てのコロニアル建築と調和した綺麗な街並みなど、アジアとは全く趣が違い、見るものすべてに大変驚いたと渡航記録にはあります。
当時の国名はセイロンでしたが、150年前にはすでに紅茶生産の機械化も進み、1858年には蒸気機関車が走っていたのです。(イギリスは1830年、日本は1872年)
ご存知だと思いますがセイロンは約150年間イギリスの植民地支配を受けていましたが、1947年に独立し、1972年にスリランカに国名変更した経緯があります。
さて、留学生・ネルソン氏の研究の思いは「同じ19世紀にイギリスと遭遇した日本とスリランカというアジアの国が、なぜこれ程までに国力に差ができたのか?」「この差を学びたい」 という一念であったと聞いています。
当時の大阪大学・宮本又次教授のアドバイスで「指導者としての五代友厚」を研究しなさいと勧められたそうです。その後「五代友厚の研究」に邁進し、1989年に博士号を取得されました。
600ページに及ぶこの論文の中で「五代は、外交、行政、経営など、他の人よりも圧倒的に広い領域で活動し、この根底には、公と私を超越した起業家精神である」とまとめています。
一方「五代は、矢継ぎ早に事業を展開する勢いがあるが、同時に彼の弱点でもありました。なぜならば、五代は物事を始めるのは得意な反面、いくつもの事業を失敗している。しかしながら、転換期の日本にとって多くの制度設計、ビジネスが未知数の領域であった時代には、長期的に考えてこの失敗も必要であり、そこで得られる経験値自体が当時の日本社会では極めて貴重であった」と近代化の先覚者と評価しています。
これらの五代の行動は、未来のあるべき日本の姿を想像し、エネルギッシュな人間像として私には伝わってきます。
今、現代を振りかえり、五代さんの起業した会社を探しても、明確には見つけることができません。しかし当時に「近代化のモデル」として日本各地に導入したものが、形を変え、名前を変え、社会に貢献している施設や事業が数多く存在しているのは事実です。
また結果として、五代さんの銅像が大阪に実に5体もあります。
いかに五代さんが民衆に慕われ、恩人と尊敬されているかの証ではないかと思います。
これから、皆さんとそれぞれの視点で五代研究を深耕していきたいと考えています。そして、五代さんの「考え、行動、志」を現代版にアレンジした「未来への具体的な提言」ができれば、Dream 五代塾の責務が成し遂げたといえるのではないでしょうか。
Dream 五代塾 理事長 川口 建