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五代友厚プロフィール

<五代友厚>(西暦1836~1885)

 

天保6年(1835)12月26日<新暦1836年2月12日>鹿児島城ケ谷(現長田町)に父・秀堯(ひでたか)の次男として生まれた。父は薩摩藩の儒官で、藩主島津斉彬の側近として仕えたブレーントラストの一人であった。

 

幼少時から誠実で規則をよく守り、争いごとを嫌い、むしろ能弁で和解させることを得意とし、果断であった。14才の時、世界地図を模写して眺め、自ら工夫して地球儀を作り西欧への関心を募らせた。19才で父を亡くし、翌年から藩に出仕、やがて選ばれて海軍伝習所で学ぶため長崎に遊学した。勝海舟、高杉晋作、坂本龍馬ほか多くの人たちと交遊した。 

また、御船奉行副役として、船舶、武器など富国策に沿って活躍。英商人グラバーと親交もあり、共に上海に渡航し船舶購入などのため市場調査を行った。

 

文久2年(1862)の薩英戦争に参加した体験から、富国強兵、貿易促進、殖産振興、人材育成の策を上申(五代才助上申書)、これが認められ欧州視察の使命と留学生14名を引率し、松木弘安(寺島宗則)らと英国内の産業界を視察し、武器・紡績機材などを購入、沸・和・比・独の各国産業を視察研究、1867年のパリ万博に我国からも初参加する手続きをすすめた。 

 

また、比国(ベルギー)と商社設立の仮契約をするなど開国派として富国策を一段と強める動きをのこした。帰国後の活動も長崎を中心に帰国派諸藩(長州・佐賀・土佐・宇和島)への武器購入斡旋につとめ、志士の間では「薩の五代」と著聞した。

王政復古による天皇中心の太政官制政府は、慶応3年(1867)12月後半から戌辰戦争を経て将軍を追放し動き出したが、翌慶応4年(1868)1月11日の神戸事件(6カ国軍隊が神戸居留地を占領した)という外交事件に対応が後手後手と混乱するなか、天皇政府の新体制を声明し、責任態勢を明確に各国に宣言すべきことを建言、1月15日三宮で各国代表を衆め宣言したのは五代たち万国公法を知る薩摩藩の強い支援によるものであり、これを契機に、外交官として政府に起用され、2月の堺事件、京都でのパークス英公使襲撃事件の後処理に目覚しい活躍を示した。

 

行政機構整備を急ぐなか、大阪府行政を進め政府の財政問題にも建言、大阪商人たちとの接触深まるなか、明治2年(1869)半ば、会計官判事として横浜への転勤命令が出たが、部下の職員一同、および、大阪市民側からも五代の留任を望む声が高まり一大運動の様相を示し、熟慮した末政府を辞任、大阪経済の崩壊を救い、新しい大阪経済界の再建に全身全霊を捧げる大きな志を示し、一民間人として「官から民へ」「武士を捨て商人になり下る」と実兄に蔑まれながらの、起死回生の場面であった。夜を日につぐ努力とともに報いが現れ、明治新日本の資本主義導入のリーダーシップが順次功を奏した。 

 

その間の業績は別記を参照されたいが、近代化日本の生成に強いリーダーシップを発揮した大きな強い志に、五代の人柄が行動を起こし、マンチェスターを実現する基礎を築き上げた。

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