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五代友厚とは?

          歴史から見ると明治の初期はまさに日本における革命であり、一歩間違っ

          たら日本はどうなったのか? その混乱の時代を若き指導者達が命を懸け

          新しい日本を作っていった。

          その一人が「五代友厚」である。

 

          五代は若い時から藩ではなく日本を見ていた。また「世界を視野」に入れ

          ていた。これは長崎で延べ11年の遊学期間に多くの現実を学び、人脈を築き、この人達はのちに様々な形で五代の活動を支えることになる。

 

五代の素晴らしさは「先見力」と「決断力」、そして「スピード感ある実行力」である。

 

武士を捨て、明治新政府の役人を捨て、自分を必要とする大阪に東洋のマンチェスターとなるべき基盤を見つけ、それを活力の源泉として大阪の商人に溶け込み、外部から「新しい風を吹き込んだ」のである。

五代の活動は「多面的な企業家」であった。金融・鉱山・製藍・製銅・貿易・印刷・港湾設備・交通・商法会議所・株式取引所・米商会所・教育機関と多岐に渡った。

また五代の特徴は「公益性」があること。大阪の開港施設・居留地・大阪商法会議所・大阪株式取引所・堂島米商会所・大阪商業講習所・神戸桟橋・中小海運業者の大合同による大阪商船など、社会経済の基盤となるものが多かった。これらの大部分が今日なお、大阪いや日本経済の中枢的施設とし機能し続けている。

 

五代は、数々の事業を起業したが彼が単独で行った事業はなく、ほとんどが共同事業である。海外で学んだ「商社合力」(現在の株式会社)を実現していった。

元来大阪は個人から成り立つ商人の町である。この中で特異能力ある人(豊富な人脈・ビジネス経験・経営能力・資金力)を見出し新しい企業に次々にあてはめた。五代の貢献の意義を考えてみると、彼は明治維新期に渋滞していた「大阪人に〝喝”」を入れたことである。

 

目が覚めた大阪は、この地の可能性や夢を感じ取って多くの人々が大阪を目指し、第2の五代を目指して参集してきた。その結果が現大阪企業家ミュージアムに近代大阪の企業家として105名の事跡を紹介されているが、最初の五代のパネルを始めてとして大阪生まれでない人は85名である。これが五代の残した一番の功績である。

五代は、実業家の16年間で多くの近代大阪の基礎を作り上げた。「忠恕の精神」を常に念頭に置き、国をまず考え、自分を捨て、多くの人々のために前を見て日本を考えていた。他の人に尽くし己の財はいっさい持たず、これだけの人が個人で当時100万の借財を残したのです。

彼の死を知り大阪中の人は、五代の最後の別れに一般の人が4,300人も阿倍野墓地まで続いたと言われている。また、ひとつの町に五つもの彼の銅像がある。これらのことは日本中見てもありえないほどの現象であり、大阪の人が慕った所以である。

  忠恕とは・・・自分の良心に忠実であることと、他人に対する思いやりが深いこと

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