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  • 執筆者の写真川口建

『情実』に流されず  五代の生き方に学ぶ

五代友厚の生涯を俯瞰的に見てみると、基本的に幼いころより『情実』に流されない性格であったのではと感じる。『情実とは』個人的な利害、感情にからんで公平な取り扱いができない関係や状態のこと。


五代の育った薩摩藩では、武士の子弟が先輩後輩で学問や武術を教えあうという郷中教育システムで〖負けるな、うそを言うな、弱いものをいじめるな〗という士道の基本を徹底していた。この負けるなは他人に対してではなく、自分に負けるなである。

郷中教育で、四書五経の教えなどを、詮議いわゆるディベートでの中で起こりがちな言い争いや、喧嘩に発展する際には決まって仲裁役として五代が呼ばれ、理路整然と議論に割って入り丸く収め、聴くものを納得させる弁舌や交渉術があったようだ。

いくら仲間であっても、誰が、何が正しいのか揉め事などの仲裁に五代は舌を尽くして相手を説得、納得させ治めていた。


また長じては外国事務局判事としての仕事に対し、長崎伝習所時代からの知り合いであり、英国留学やその他各方面で非常世話になっていたグラバーに対し、輸出許可のない商品を大阪から積み出したときには、イギリス副領事官あてに告発と抗議文を提出するなど、外国人の不正を厳しく取り締まった。当時、伊藤博文からは取り締まりの手を緩めてはどうかと、厳しい忠告書を送っているが、五代は断固として所信を貫いて大阪商人・我が国の権益を守ろうとした。結局グラバーは利権の獲得に失敗し、1870年にグラバー商会は10万ドルの借金を抱えて破綻している。


また同じくベルギー生まれのフランス伯爵家の出自であるモンブランに対しても、欧州視察中に合弁商社設立の条約を締結したり、パリ万博への出展や、薩摩藩への建言書などへの考え方など、藩や民に下ってからの五代の行動に有益に影響を及ぼした人物であったが、大阪・神戸間の電信の架設を大阪のフランス代理領事レックを通じて明治元年(1868)に申請したが、日本ですでに準備が進んでいると断っている。他国が利権を得ようとする行動に対して、その事業は新生日本の手で行うという気概がそこにはありました。


この様に基本的に日本を外国の植民地にしないために、また未来のため何が必要で、何が阻害するものかの判断が決まっていてそれに対して『情実』に流されず貫き通していることが五代の五代たる所以かかと思う。それはとりもなおさず【目的】がはっきりしているからだ。


民に下る頃【惣難獣】と題した戯画と時勢風刺を書いている。「明治元年の中春の頃、諸国の山奥等より異形の獣が生じて、ここかしこに集屯して、万民を悩ます事甚だしく、退散することを、神に祈るばかりである。 (中略) 頭に権を裁き、頭でっかちにして、面の皮が厚い。鼻が高く天狗のごとき口広くして舌が長く、ある時は二枚になる。悪毒を吐き、人害をなす。肩より爪を生やして、ことに長い。金銭をつかむこと鷲、熊、鷹のごとし。背に翼を生やして今日はここかと思えば、翌日には東京・長崎に住す。 (中略) 誰か早く、退治されることをつつしんで祈る。」

人の世に巣食う悪魔のような欲望や怨嗟(えんさ)の、ままならぬ世の中の不条理を五代なりに書いたものである。


転じて今、日本にはびこっている政治的な出来ごとは、ほとんどの人が『情実』に流され、曇った眼でことを推し進めているように思う。

五代が今のこの体たらくを見たとき、ただ未来へと命を縮めて頑張っていたのは一体何のため、誰のためであったのかと嘆き悲しんでいるように思えてならない。


                       Dream 五代塾 理事 川口由美子


五代友厚 戯画「惣難獣」


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