父・秀堯の趣意書には、模写を命じたのは、当時4歳の次男友厚(徳助)ではなく、13歳の長男友健(徳夫)であったことが記されている。友健の筆写ぶりは、精緻で見る者は感服するほどで、秀堯は自分の子ながら友健のことを「奇童」(神童)と記しており、壮健の者(大人)顔負けの能力だとべた褒めしている。
また、四隅に描かれている副図は、母・やすが模写したとあり、地図の表装も手掛けたということが記されている。

■明治維新における経済と産業近代化の先覚者、商都大阪を築いた大恩人■
あなたは、五代友厚を知っていますか!?
五代友厚公の精神を甦らせこの精神を引き継いでいく志の連帯を広げていこう
Comments