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  • 執筆者の写真川口建

五代豊子の生家「萱野家の墓」 (五代友厚公墓参会資料より)

更新日:2021年12月13日



「ミニ知識」


以前は奈良県田原本町八尾の生家近くの安養寺にお墓があったが、大正5年に長男の森山茂は、弟の萱野真、妹の五代豊子とも相談し、大阪阿倍野霊園の五代友厚墓地に向かって左20mの地に改葬した。従い、現在安養寺には萱野家に関係するお墓はない。

(一部のDVDに現在も安養寺にお墓があるがごとく紹介しているが、映像にあるお墓は先祖の墓とは関係がない)


「安養寺」 萱野家のお墓は大阪阿倍野斎場に改葬されるまではこの地にあった。また、豊子は兄茂が逃亡中、弟の真らと寺の床の下に匿われていた。


豊子の父恒次は儒家として村民のみならず近隣からも多くの人が勉学にいそしみ、扇鳳先生と呼ばれ慕われた。また、金春流シテ方としても著名で、兄茂や豊子も幼時から謡曲に親しんでいた。門弟は2000人ともいわれ、恒次が亡くなった後、教え子らが費用を出し合って「追慕碑」を浄照寺に建立した。大正5年萱野家のお墓を大阪阿倍野斎場に改葬したと同時に当地に移設したが、平成10年に老朽劣化で倒壊の危険があったため残念ながら撤去された。


「浄照寺」追墓碑については、明治10年明治天皇が五代友厚の経営する朝陽館(製藍業)に行幸され、次いで奈良にも行幸された。その途中の休憩地として浄照寺が選ばれ、宮内庁の役人が現地下見に来たとき、「大きな台座の上にひときわ背の高い石碑があるのは不敬であり取り除け」といった。それを聞いた外務省高官の森山茂は「あれはわしの実父萱野恒次の追墓碑であり、五代友厚の妻豊子の実父碑でもある」と発言し、移動は沙汰止みとなった。という逸話が残っている。

馬上の人を見下ろす高さというから、相当高かったのだろうと推察できる。大正5年に阿倍野斎場に移すときは、追墓碑を台座石の上の部分を切り取って移した。


「追慕碑」 左 顔写真半分・五代力次氏 右・永見克也氏

             1992年8月1日(平成4年)大阪阿倍野霊園にて曾野豪夫写す


「浄照寺」





森山家のお墓

萱野家恒次の長男茂(五代豊子の兄)は天誅組の乱で菅沼一平と変名し参加した。ところが天誅組は時の幕府に追われる身となり、大阪の国学者森山藤次郎(号は履道軒)のもとに身お寄せ、後に同家の養子となった。その先祖の墓は五代友厚墓地に向かって右50m位の場所にある。

茂は元々実力があったことから維新後は兵庫裁判所に出仕。明治2年には外国官書記、その後外務大丞(たいじょう)まで昇進。退官後は元老院議員、富山県知事を歴任し貴族院議員を約25年間務めた。

茂は当時の兵庫県知事伊藤博文の部下であり、大阪の五代友厚とは近いところで仕事をしていた。結果、妹の萱野豊子を五代に嫁がせた。

尚、森山茂夫妻とその子孫のお墓は東京青山墓地にある。



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