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  • 執筆者の写真川口建

旧松島遊廓地 (五代友厚ゆかりの地探索①より)-3

更新日:2022年1月9日

「豆知識」


土佐稲荷神社見学後、長堀通を木津川方面に歩き伯楽橋を渡った右手に松島橋がある。その公園に当時の松島橋の標識(どういう名前?)と長谷川貞信の「浪花百景」に描かれた松島遊郭の碑がある。橋は大きく反り返ってり、帆船が通行できるように造られている。立派な建物は最初に建てられた松鶴楼である。


松島遊郭設置の必要性は以前からあった。一つは、幕末の大阪開市に伴い外国人の往来が予想され風紀問題を解決するには遊郭を設けるしかない。その後、維新となり居留地となった川口付近に、小料理屋、そば屋、ぜんざい屋の看板のもと、売春婦が現れ周旋屋も現れて手を焼き、大阪外国事務局では外国人向けの遊郭を居留地に設けることが決まった。他方、当時大阪には、各川筋や市内に散在する二十余ヶ所の小遊里を一箇所に集めたいという意向もあった。


慶応4年7月、大阪は開港場となり外国人居留地を設置し、俗称松ヶ鼻に遊郭を設けることとなった。川口運上所では五代友厚が提唱し、運上所の役人2名を松島遊郭掛りに命じ、遊郭の建設に当たらせた。工事は着々と進捗し翌2年12月に竣工し、外国事務局の松島遊郭掛りが経営管理。新堀を掘り、橋梁を架設し、区域を拡張し、最初に松鶴楼が建設され、全く官設のものであった。


松ヶ鼻とは、九条村、木津川、寺島町などの総称で、明治元年12月に松ヶ鼻の松と寺島の島を組み合わせ、松島町とした。

五代は明治2年5月に横浜転勤を命じられ、その時点では松鶴楼が出来上がっていた程度で、他はまだ移転もせず。未完成と言って良い状況であった。

現在のこの地域は、1958年(昭和33年)の売春防止法施工以降、届け出上は「料理店」となっているが、「仲居と客の自由恋愛」と称する行為が行われている。


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