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  • 執筆者の写真川口建

治田鉱山へ in三重県いなべ市

更新日:2020年7月24日

2019年7月8日、治田鉱山の麓まで行ってみた。現在は鉱山鉱口までの山道が山の崩壊などで通行止めになっているようでした。残念だが登山口の案内板を撮影して帰った。この奥の山に五代友厚、藍子の鉱山開発の証があるのだが!

この地は、五代藍子が1918年(大正7)、同市北勢町の滋賀県境に近い治田(はった)鉱山の掘削権を取得した。鉱区登録の名前は「五代アイ」であった。 父・友厚は1874年(明治7)に四日市の水沢地区で銀などの試掘を申請しており、この地方での父の新鉱脈発見の熱意を引き継ごうとしたのではないかともいわれている。 五代藍子は1876年10月に誕生。正妻の子ではないが友厚の次女として育てられた。生涯独身で1965年に88歳で死亡。

2016/02/22 朝日新聞(三重県)記事によると アイさんは、当時のお金で20万円を投じたが、結局、思うような成果は出ないまま亡くなった。地質学者や出資者が反対するなか、最後まで「下部にはきっと大きな鉱脈がある」と言っていたという。 また当時、アイさんをご存知の方は「いつも男のような作業着で、なよなよとしたところがない人だった。『お父さんが女性にもてる人で母が苦労したから結婚はしないの』と話すのを聞いたこともある」と話している。






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