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  • 執筆者の写真川口建

「神戸事件」ラストサムライ瀧善三郎が体験した武士道  堺事件を語り継ぐ会主催勉強会参加

更新日:2022年8月28日

2022年8月26日(金)14:00~ (「堺事件」を語り継ぐ会主催)

堺市にある旧皇室勅願寺 本山 妙國寺 客殿にて、一般社団法人歴史新大陸代表理事 後藤勝徳氏の講演を聞かせて頂いた。その時の講演の一端と感想は以下の通りです。

尚、Dream五代塾会員5名参加しました。



時まさに風雲荒れ狂う時代の最中に起こった「神戸事件」

1868年1月11日、新政府側の警護のため西宮に向かって隊列を進めていた備前藩にフランス水兵が供割をし、砲兵隊長の瀧善三郎は槍の小尻で突いたところフランス兵が短銃を取り出し行列に向けた。この時鉄砲隊は威嚇射撃を行った。双方とも死者は出なかったが、これが新政府最初の外交問題となった。

これに対し諸外国からは事件解決として、➀「天皇の政府」より書面をもって陳謝すること ➁外国人に対する今後の安全を「天皇の政府」が保障すること ➂備前藩の発砲発令を下した士官を死罪に処すること と強硬で屈辱的な内容を要求され、日本政府は結果としてこれを受け入れざるを得なかった。

日本新政府はまだまだ内政も整っていない中での事件で、双方に死者もなかったことから伊藤博文、五代友厚らが諸外国と交渉し、瀧善三郎の助命に切腹の直前まで奮闘したが、瀧善三郎一名の切腹は執行された。瀧善三郎は武士の古式に則り見事に切腹して果てた。


【瀧善三郎は、隊員はもとより、家老日置帯刀、備前藩、ひいては日本、天皇を守るため自分一人が罪を受けることとした】

辞世の句:今ははや 森の日陰になりぬれど 朝日ににほふ 倭魂      2月7日

    :きのふみし 夢は今更引きかへて 神戸が宇良に名をやあげなむ  2月9日


この瀧善三郎の切腹の状況が詳しく海外新聞で報道され日本の武士道に対し大いにセンセーションを巻き起こした。


神戸事件の解決から6日後には堺で同じくフランス兵との事件が勃発し(「堺事件」)、当時の日本は言葉の壁もあったのか、弱腰外交となり海外列強からの押し気味の申し入れを聞かざるを得なかった

それを対等にしなければ日本は海外の思うようにされてしまうと五代友厚は小松帯刀に「富国強兵」を推し進めるよう提言したとのこと。この「神戸事件」「堺事件」は維新の動乱の時に起こった事件ではあるが、新渡戸稲造の【武士道】に書かれている瀧善三郎という人の心の中に流れている、日本を思う【倭魂】が多くの人の中に育っていたので海外の植民地になることを免れたのではと思う。今の日本に忘れてはならない知っておくべき、習っておくべきことではないかと痛切に感じる。(川口由美子記)



以下はDream五代塾で神戸事件を簡単に纏めたものです。参考に記載しておきます。

神戸事件 明治元年(1868)

1月1日、備前藩は西宮の警備を旧幕府側の大洲藩から交代を命じられ、総勢約2,000名の大軍勢が順次西宮に出発した。1月11日、備前藩士日置隊の一行340名が現神戸元町通りを過ぎて「下に居ろ~ぅ 下に~」と三宮神社附近を緊張しながら行進していた。その時フランス水兵2~3名が、騎馬の小隊長瀧善三郎正信の命令による隊士の槍の制止も聞かずに行列を横切ろうとし(「供割」)、或いは、その同僚水兵がピストルを擬したため「鉄砲、鉄砲!」と叫んだ(撃て、とは言っていない)。鉄砲隊は威嚇射撃を行った。(三宮神社前に碑文)結果、外国人側に負傷者が出て明治新政府初の外交問題となった。

最終的には、問題を起こした隊の責任者であった瀧善三郎が2月9日に切腹することで一応の解決を見た。

この事件が起きた時点では、朝廷は諸外国に対して徳川幕府から明治政府への政権移譲を宣言しておらず、伊藤俊介(後の博文)が折衝に当たるも決裂するに至った。

1月15日、急遽、開国和親を朝廷より宣言した上で明治新政府への政権移譲を表明、東久世通禧を代表として交渉を開始した。

列強諸外国の要求は、日本側責任者の厳重処罰、即ち瀧の処刑であった。日本側は、外国人被害者に対して処罰が重すぎること、また瀧の行為「供割」への対処は、武士として当然のものであると交渉したが、列強の強い要求の前に抗うことができず、五代や伊藤がパークス等各公使に瀧の助命嘆願を2日間走り回り、切腹の時間は3時間以上も引き延ばしギリギリまで奔走したが、その努力も水泡に帰した。彼らは日本が清国やインド等のようにされることを心底怖れた。結局フランス水兵の狼藉に端を発し双方死者がないにも関わらず、新政府は心ならずも備前藩士の切腹で問題を解決せざるを得なかった。屈辱外交と言わざるを得ない!


2月9日、6ヶ国公使の前で瀧善三郎正信切腹、享年32。検視役伊達宗城、伊藤、五代ほか。外国人が始めて見た「切腹」の作法。



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