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  • 執筆者の写真川口建

明治の新聞記事から五代友厚を読む #004

堺事件 新聞紙上は「2月9日備前の士官刑死事件の復讐か」と書かれている。土佐藩士たちの開国に向けた緊張感と武士の気概と愛国心が不幸な結末となったと感じる。 堺浦の埠頭を警戒に当たっていた土佐藩士と許可状なく上陸を試みたフランス兵との争いである。2月15日夕刻にフランス兵は箕浦隊長率いる隊旗を奪い過激な挑発行動に出たことに対し、怒りを感じ発砲しフランス兵に11名の死者が出た。 五代は天皇が各国公使を謁見されることとなりその準備に忙殺されていた夜事件の一報が入った。五代はこの堺事件処理で重要な役割を果たしているが、2点紹介しておきます。 一つは、フランス側は16日午後4時までに死体を引き渡せと要求。五代は500両を超す金を準備し海の中から11遺体を引きあげ毛布で丁寧に包み届けようとした。ただ、時間はすでに5時であり、自分の時計をわざと2時間遅らせ約束を守ったと主張し納得させた。五代は外交をよく知っており、約束・契約を守るという事、また日本人ならではの誠意を見せるという基本姿勢を貫いた点が貴重である。 2つ目は、発砲した土佐藩兵士は全員処刑を要求されたが、20名の切腹で折衝し実行に移った(2月23日)。11名終了時点でフランス側から処刑終了指示があった。土佐藩家老は20名は死を覚悟して臨んでいるので彼らの志を全うさせたい、また、後にぶり返されるのではと心配し引き下がらなかった。 五代は「生存者は他日を帰して立派な仕事をするでしょう」と説得、人の命は貴重な人材であることを示した。 五代は外交手腕を発揮したことも重要であるが、人とは何かという基本に立った行動を常に実践できる人だと感じる事件です。



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