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  • 執筆者の写真川口建

明治の新聞記事から五代友厚を読む #014

製藍事業(朝陽館)隆盛から閉鎖へ

五代にとっては腰を据えた大事業であった。世界的な市場規模の大きさと、インド藍の輸入で苦境に立った阿波精藍業者を助けることに着目し、明治7年にヨーロッパの藍精製技術を導入し徳島郊外に工場を設けたのがスタートである。その後大阪堂島と東京三田網町に工場を設立し、朝陽館で管理統轄をした大会社となった。最盛期には大阪製藍所には8000人の職工がいた。全国各地はもちろん、中国の北京にまで販売網を持つまでに成長した。また天皇も行幸され、日本の近代産業の一つとして注目されていたことが伺える。

しかし、最終的には品質技術、コスト面で一歩及ばず、また代金回収が十分にできず、工場は閉鎖せざるを得なかった。

明治初期を想像し、8000人の従業員を抱えて事業を起こす、そのスケールの大きさには驚くばかりである。

新聞記事にも五代の行動に注目する記事が多くみられる。











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